会津西街道


秋色に染まった、昔ながらの面影を残す街道。(上三依地区)
 会津西街道は、会津藩あるいはその背後にある東北・北陸の諸国と、江戸を結ぶ重要な交通路でありました。
 会津若松から山王峠を越えて下野に入り、横川・上三依・五十里などを経て、鬼怒川を渡って大桑宿から日光街道今市宿に至る、延長約128qの街道であります。
 会津藩にとって、参勤交代や公用通行の重要なルートでした。さらには、高徳から大宮を通って氏家の阿久津河岸へ廻送される廻米道として常に会津藩が整備に力を入れてきた街道でもありました。
 遠い昔から、会津地方を中心とした東北地方との交流の要となって、人や物の行き来をささえ、道筋のあちらこちらにひっそりと遠い歴史の面影と信仰の足跡が残されています。
 国道121号を国道400号に折れた道端に、いにしえの伝えを語り継ぐ上三依野仏群や、上三依一里塚は、人々のふれあいと交流の歴史を今に残す貴重な証です。




上三依一里塚
 東北・関東を結ぶ会津西街道は、会津藩にとって、参勤交代や公用通行の重要なルートでした。寛文7年(1667)、藩は幕府の命により若松・札之辻を基点に一里塚を作りましたが、現在はほとんど残っておらず、横川と上三依の一里塚が会津西街道の足跡をとどめています。
(会津西街道をたずねて)

 

上三依野仏群
 会津西街道を尾頭峠方面に折れた道端に、小さな石の野仏たちがひっそりと立っています。二十三夜供養塔、弁天供養塔、子安観音などさまざまですが、どれも交通安全や安産を願い、罪業の救いを求めた人々の祈りがこめられた穏やかなお顔をしています。
(会津西街道をたずねて)

文政六銘石造道祖神
 道祖神は、奈良時代に起こった全国的な民俗信仰の造形で、路傍や村境にあって邪悪な神の侵入をふせぐ役割をもっています。この道祖神は、娘が男根を胸に抱く姿を陽刻したもので素朴な美しさをもっています。なお、この姿態をもつ道祖神は県下に例をみません。
(会津西街道をたずねて)


五十里洪水
 
天和3年(1683)の大地震によって葛老山が崩れて、男鹿川がせき止められ五十里湖が出現しました。川沿いにあった会津西街道は途絶され、会津藩は2度にわたり湖水水抜き工事を試みましたが、工事は難航し、当時の技術では完成できずその姿を変えることが出来ませんでした。
 享保8年(1723) 8月7日から10日にかけて暴風雨に襲われ、これがきっかけとなり、8月8日(10日の説もある)満水の五十里湖がついに決壊し、一気に抜けた水は大量の土砂を押し流し、直撃を受けた川治村、藤原村、滝村(現在の鬼怒川温泉)は壊滅的な打撃を受け、その影響は現在の藤原、今市、塩谷から遠く下流の氏家、高根沢、上河内、河内、宇都宮方面まで広範囲に及び、多くの流死者、家屋の流出、田畑の浸水など、甚大な被害を受けました(死者1000人以上との記事もあり)。下野災害史上空前の大災害となりました。
 この洪水による痕跡は、今でも各地に見ることができます。氏家町西導寺の宝冠釈迦如来坐像の胎内に当時の泥が残っています。上河内町下小倉の町指定天然記念物「下組の大杉」、河内町東下ヶ橋の県指定天然記念物「三股カヤ」などの古木巨樹には洪水の時人々が樹に登り、一命を助けられた伝説が今に伝わっています。

天保年間の頃の大桑宿想像図(今市市大桑)
 徳川御三家専用本陣のありし頃の大桑宿、慶応四年五月会津戦争により全焼しました。  (「豊岡村誌」から 龍福 昭氏撮影)

所 在 地
管 理 者
街道の変遷




用途・目的
日光市(旧藤原町)上三依
日光市

1. 寛永20年(1643)に家光の異母弟、保科正之が会津藩に就封して以来、特に重要視さ、 翌年の正保元(1644)、 参勤交代のため、初めて通行。
2. 万治2年(1659)、山王峠の険路打開に成功。
3. 天和3年(1683)、大地震のため葛老山が崩れ、五十里宿は湖底に沈み、交通路が遮。
4. 享保8年(1723), 五十里湖が決壊し、五十里宿復活。
街 道

案 内 図

参考文献
栃木懸史・田代善吉
杉並木物語・今市市杉並木物語編集委員会
会津西街道をたずねて・藤原町観光課

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