足尾銅山

江戸時代、慶長15年(1610)、備前国治部と内蔵によって備前楯から銅鉱が発見され、以来江戸幕府直轄の鉱山として、最盛期には足尾千軒と言われるほど賑やかな町に発展し、鋳銭座を設けて寛永通宝(足字銭)を2,000万枚製造しましたが、次第に産銅量が減少し幕末には休山状態になりました。
 明治政府になっても状況の改善がみられなかったため、明治5年(1872)には政府から民営に移管し、明治10年(1877)に古河市兵衛が経営することになりました。
 明治14年(1881)頃から大直利(なおり)と呼ばれる富鉱脈の発見が相次ぎ、明治18年(1885)通洞坑、旧小滝坑を開坑し、産銅量は飛躍的に増加しました。 
一方、古河市兵衛は優秀な技術者を積極的に雇用し、世界最先端の技術を取り入れ、鑿岩機、坑内運搬用の鉄道、水力発電所、新製錬法など次々と設備の近代化を推進し、明治17年(1884)には日本一の産銅量を誇り、やがて全国の40l以上を産出するなど、最盛期の大正5年((1916)の町の人口は3万8,000人を超え、県庁所在地の宇都宮市に次ぐにぎわいを見せ、日本最大の銅山として隆盛を誇りました。
 しかし、急速な開発による木材の伐採と煙害や山火事による樹木の消滅は、山の保水力低下をもたらし、明治23年(1890)以降は毎年ように大洪水が続き、渡良瀬川下流に鉱毒問題が発生し、明治政府は明治29年(1896)から翌年にかけて3回の鉱毒予防工事命令を発令し、古河市兵衛は足尾銅山の存立をかけて昼夜兼行で工事を行い、中才、間藤に沈殿地、堆積場、脱硫塔などが建設され、鉱害対策が実施されましたが当時の技術では完全な脱硫は難しく、古河鉱業が世界で初めて独自の方法で完全な硫酸の除去に成功したのは昭和31年(1956)になってのことでした。
 ついに、昭和48年(1973)鉱脈の枯渇などで、銅山発見以来360有余年の歴史の幕を閉じましたが、銅山の総産銅量は82万トンとなり、全国1位の記録であります。
 足尾銅山は我が国の近代産業の先がけとなって、日本の産業発展に大きな貢献をしましたが、その功績の陰に悲惨な鉱毒公害が発生した地域として、“公害の原点”と言われていますが、町内には貴重な産業産遺があちこちに沢山残っています。
 日本最大の銅山とした鉱山王古河市兵衛と、片や鉱毒の発生と対峙し生涯をかけて闘った、義人田中正蔵は日本の近代化に比類なき足跡を残しました。
 この“光と影”をありのまま残している、「足尾」を世界遺産に登録しようという活動が地元から始まり、登録を目指す日光市を支援するため、平成20年(2008)4月に栃木県は「世界遺産登録推進室」を県教育委員会に設置しました。
 足尾銅山「光と影」年表は、足尾銅山の産業発展と鉱毒問題に関わる被害対策を対比した略年表を作成したもので、さらに、世界遺産の登録を目指して、産業遺産の構成資産名を掲載するなど、歴史の流れが分かるようにしましたので、ぜひ見てください。

 参考文献  
栃木県立文書館企画一栃木の近代産業と交通の発達一栃木県立文書館
足尾銅山百選一足尾楽迎員協会
足尾・足尾町「足尾ガイド」作成委員会


関連事項
   
   栃木県の土木遺産  古河橋
     足尾ダム
     渡良瀬遊水地
     第二渡良瀬川橋梁
     第一松木川橋梁
     細尾発電所

足尾銅山の公害
 「日本の公害の原点」といわれる足尾銅山の公害は、渡良瀬川やその下流域の鉱毒事件(足尾銅山から発生)と、足尾製錬所の煙害問題が日本の公害史上、重要な事件として位置づけされています。

渡良瀬川鉱毒水
 足尾鉱毒事件の始まりは、明治14年(1881)からの急激な産銅量の増加に合わせ、坑内から出た鉱石、廃石、坑内水と選鉱や製錬の廃水に含まれた銅分などが水に溶かされ、渡良瀬川に流れ込み、明治18年(1885)鮎の大量死など被害が表面化しました。
 やがて、魚類から農作物へと被害が拡大し、明治23年(1890)8月の大洪水で冠水した稲が腐り、桑がかれ、足尾銅山から流れ出る鉱毒の存在が誰の目にも明らかになりました。その後も度重なる大洪水により農作物の被害が増加し、渡良瀬川や、その下流域で水質、土壌汚染による鉱毒問題が深刻になりました。
 当時、渡良瀬川沿岸に住む数万の農民の被害運動の先頭に立った田中正造は、明治24年(1891)国会で「足尾銅山鉱毒の儀につき質問書」を政府に提出し、事件が初めて国政の場に出されました。明治34年(1901)には明治天皇への直訴を決行するなど、足尾銅山鉱毒問題は、大きな社会問題へと発展して行きました。
 明治29年(1896)群馬栃木両県の被害民から、足尾銅山鉱業停止請願などが出され、明治政府は古河市兵衛に対し、同年12月予防工事命令を出し、明治36年(1903)まで5回にわたる鉱毒予防工事命令が出されました。
 特に、明治30年(1897)に出された第3回命令は、期限付きの厳しいものでありましたが、古河市兵衛は、この命令に対し、当時の金額で104万円の巨費と、従業員はもちろん、町民も手伝い、延べ58万3,000人余という人で期限内に完成しました。当時は100万円で、日本の代表的な鉱山が一つ買えたといわれるから、足尾銅山の存亡をかけた大きな工事でありました。
 一方、明治35年(1902)、政府は足尾銅山鉱毒水を沈殿させるため、貯水池建設をきめ、谷中村が候補になりました。翌年遊水池案が公にされ、それから、明治39年(1906)谷中村は廃村となりましたが、なお、谷中村堤内に残る家屋16戸は、明治40年(1907)強制破壊されました。田中正蔵の生涯は、足尾鉱毒事件の解決に全力を傾けて闘い、叫び続けきました。
 鉱毒水問題は治水問題となり、政府は明治43年(1910)渡良瀬川改修工事にゴーサインを出しました。総工費750万円、14年間の継続事業は動き出しました。
それから、12年後の大正11年(1922)渡良瀬遊水地は完成しました。
 
煙害
足尾製錬所の煙突からはき出される煙の被害は、長い間にわたり深刻で大きな影響を住民にもたらしてきました。
 煙害のきざしが現われ始めたのは、明治18年(1885)産銅量が4,000トンに達した頃からで、これに拍車をかけたのが明治20年(1887)4月8日に起きた松木村の大火はおりからの強風にあおられ、松木・仁田元・久蔵の奥から赤倉・間藤・田元付近まだの広範囲にわたって山林や家屋を焼失し、日毎に増大する煙害のために、幼木は生育できず、山地の荒廃は年とともに進み、やがては草木の生えぬ裸地となってしまいました。
 松木村の記録によれば、煙の被害は養蚕を中心に明治18年(1885)頃から始まり、21年(1888)には桑の木が全滅し、翌22年(1889)には養蚕をやめ、他の農作物も明治33年(1900)までには無収穫となり、馬も毒草を食べ死亡したと記されています。
 明治25年(1892)当時戸数40戸、人口270名だったものが明治33年(1900)に戸数30戸、人口174名に減り、翌年には1戸を残して全員松木村をさり、明治35年(1902)廃村となりました。
 煙害対策は明治30年(1897)に政府の鉱毒予防命令が出てからで、いろいろな方法が試みられ、脱硫塔の建設もその一つですが、煙害の除去にはいずれもあまり効果がなく、一方産銅量は、第一次世界大戦とともに急増し、煙害はますますひどくなり、見舞金を支払うとか、激害地の山林約1,000fを買い取りましたが、根本的な対策はとれず、昭和31年(1956)自熔製錬法が導入され、硫酸を取り除くことができるようになるまで続きなした。
 市民ボランティアグループ「足尾に緑を育てる会」は、足尾銅山の鉱毒による煙害で“はげ山”になってしまった足尾の山に緑を戻す活動を繰り広げています。同会の植樹活動は、平成8年(1996)から毎年行なわれており、宇都宮市出身の作家である立松和平さんも参加されております。

 参考文献   
足尾郷土誌・足尾町郷土誌編集委員会
足尾銅山百選・足尾楽迎員協会
田中正蔵物語・下野新聞記事

関連事項  足尾銅山「光と影」年表






目次に戻る ページヘ戻る