足尾銅山「光と影」年表(足 尾 か ら 始 ま っ た 産 業発展と鉱毒公害の歴史) | |||
西暦 | 年 号 | 事 項 | 産 業 遺 産 群 |
645 | 大化 1 | ○ 下野国安蘇郡足尾郷となる。 | |
701 | 大宝 1 | ○ 龍蔵寺が創設される。日光山輪王寺を本寺とする天台宗のお寺である。 | 龍蔵寺 |
766 | 天平神護2 | ○ 勝道上人により天津祖庚申神の浄域である庚申山上に小祠を建立したのが、 | 猿田彦神社 |
猿田彦神社の始まりである。 | (銀山平山神社) | ||
788 | 延暦 7 | ○ 宝増寺は日光山輪王寺を本寺として、天台宗伝教大師の創立と伝えられる。 | 宝増寺 |
(木村長兵衛の墓) | |||
790 | 延暦 9 | ○ 松木村は、勝道上人の弟子慧雲(けいうん)が方等寺を建て、開拓を始める。 | |
808 | 大同 3 | ○ 磐裂(いわさく)神社は、「足尾の五氏」と言われる一族14人が、妙見宮の分身 | 磐裂神社 |
を拝受し、氏神として祀り、後に足尾郷14ヶ村の鎮守となる。 | |||
1257 | 正嘉 1 | ○ 本妙寺はこの年、薬師房(のち日因と名乗る)が薬師堂を建てたのが始まりと | 本妙寺 |
いわれる。 | (鉱山師田中一族の墓) | ||
1315 | 正和 4 | ○ 足尾の5姓(神山・倉澤・斉藤・星野・亀山又は細内)が足尾に移住したと伝え | |
られる。 | |||
1610 | 慶長 15 | ○ 備前国治部と内蔵によって備前楯から銅鉱が発見され、幕府の直山となり、 | 代官所跡(陣屋跡) |
明治にいたるまで、日光市役所足尾総合支所(旧足尾役場)一帯に代官所が | |||
あった。 | |||
1627 | 寛永 4 | ○ 銅山が日光東照宮支配となる(以後21年間つずく)。 | |
1648 | 慶安 1 | ○ 銅山が公儀御用山(幕府直山)に変わる。 | |
1649 | 慶安 2 | ○ 足尾銅輸送路としてあかがね街道を開設する 〈足尾―利根川間〉。 | あかがね街道跡 |
御用銅は代官所を基点にあかかね街道を経て江戸浅草蔵前の御用銅蔵に輸 | あかかね街道基点 | ||
送された。 | |||
1676 | 延宝 4 | ○ 足尾千軒といわれ繁栄した。 | |
○ 足尾銅山の最盛期{〜貞享期}。年産35〜40万貫産出する。 | |||
1718 | 享保 3 | ○ 足尾に大火災が発生し、千余戸が焼失する。 | |
1742 | 寛保 2 | ○ この年から5年間足尾に鋳銭座をもうけて寛永通宝(足字銭)を約2千万枚鋳 | 鋳銭座跡 |
造している。(中央グランド山際のゲートボール場付近) | |||
1763 | 宝暦 13 | ○ 蓮慶寺は勝道上人が足尾へはじめて足跡を残した時、不動滝を修験の場とし | 蓮慶寺 |
て、ここに小さな庵を結んだことから起こったとされ、本尊の阿弥陀如来立像は、 | (鉱山師吉田太郎右衛門春安 | ||
この年の作である。 | の墓) | ||
1817 | 文化 14 | ○ 銅山は休止状態となる。このころ滝沢馬琴が「南総里見八犬伝」の中に足尾 | |
庚申山を書ている。 | |||
1832 | 天保 3 | ○ 古河市兵衛、京都岡崎大和屋の次男として生まれる。 | |
1841 | 天保 12 | ○ 田中正造、下野国安蘇郡小中村に生まれる(幼名 兼三郎)。 | |
1853 | 嘉永 6 | ○ 松木村は、37戸、178人、馬8頭、畑11.4ha、石高96石と伝えられる。 | |
1865 | 慶応 1 | ○ 庚申山碑を建立する。 | 庚申山碑 |
1868 | 明治 1 | ○ 足尾銅山は明治新政府に没収される。 | |
1872 | 明治 5 | ○ 銅山が民営となり、野田彦三に払い下げる。 | |
1877 | 明治 10 | ○ 古河市兵衛が足尾銅山を経営する。 | |
1878 | 明治 11 | ○ 栃木署の巡査派出所が松原にできる。 | |
1880 | 明治 13 | ○ 田中正造、県会議員に当選する。 | |
1881 | 明治 14 | ○ 鷹の巣坑で直利に当たり、銅山好転に向かう。 | |
1883 | 明治 16 | ○ 本口坑道を開発する。備前楯直下の大直利を発見する。 | 本山坑(有木坑) |