西暦 | 年 号 | 事 項 | 産 業 遺 産 群 |
1910 | 明治 43 | ○ 日光電気軌道(株)、日光〜岩の鼻〈清滝と馬返の間〉間運転開始する。 | 日光電気軌道 |
○ 明治40年(1907)暴動により本山鉱業所が焼失し、新事務所を建設する。 | 足尾鉱業所事務所付属倉庫 | ||
この赤レンガの建物は付属の書庫として建設される。 | |||
○ 渡良瀬川改修政府案が貴衆両院で可決される。 | |||
○ 渡良瀬川改修工事に着手する(総工費750万円)。 | |||
○ 田中正造、政府の治水政策を正すため関東各地の河川を実地に調べる。 | |||
◍ 「正造の治水論」・関宿において、江戸川への流入をはばんでいる棒出し | |||
をあげ、これを取り除き、江戸川への流入を容易にすれば、渡良瀬遊水地は | |||
不要であると結論し、渡良瀬川改修計画と遊水地案に反対する。 | |||
○ 山本有三、足尾銅山に遊び初めて戯曲『穴』を発表する。 | |||
1911 | 明治 44 | ○ 掛水に古河鉱業事務所移る。 | |
○ 古河掛水倶楽部に隣接して、鉱業所長をはじめ幹部社員の掛水役宅を建て | 掛水役宅 | ||
る。現在は、鉱石資料館として日本と世界の鉱石を展示している。 | |||
○ 毛野村で堤防工事のため35町の耕地の稲が枯死。小作人県庁へおしかける | |||
○ 毛野村川崎で水害工事請負に不正ありとして再三役所へおしか ける。 | |||
○ 谷中村住民が北海道へ集団移住する(旧谷中住民は藤岡町、野木町など近 | |||
隣に多く移住している)。移住先は常呂郡鐺沸村(現佐呂間町)サロマベツ原野 | |||
と決定した。 | |||
1912 | 大正 1 | ○ 足尾鉄道の桐生〜足尾間が開通する。(足尾駅は足尾銅山の物流拠点とし | 足尾鉄道 |
て、重要な駅となる。また、通洞駅は鉱山用語である「通洞」を駅名にしたもので、 | 足尾駅・通洞駅 | ||
全国でも非常に珍しい駅名である。) | |||
◍ 切幹の鉄橋(第二渡良瀬川橋梁)開通する。 | 第二渡良瀬川橋梁 | ||
○ JR日光線、日光駅舎完成する(平成9年(1997)、関東の駅百選に選定)。 | 日光駅 | ||
○ 渡良瀬川改修にからみ、旧谷中村村民土地所有権還付の請願書を知事に | |||
提出〈却下〉する。 | |||
○ 渡良瀬遊水地の築堤工事に着手する。 | |||
1913 | 大正 2 | ○ 古河足尾銅山実業学校が設立される。 | |
○ 日光電気軌道、馬返まで延長運転する。 | |||
○ 日本初の会社機関誌「鉱夫の友」創刊される(昭和17年まで続く)。 | |||
○ 田中正造没(数え年73歳)。9月4日、足利郡吾妻村下羽田の庭田清四郎方 | |||
で病臥。胃がんのため死去する。遺志により小中農協倶楽部設立される。 | |||
1914 | 大正 3 | ○ 手持ち式小型の国産第1号となる、足尾式三番型鑿岩機を考案する。 | 足尾式三番型鑿岩機 |
○ アメリカ最大級の工業・商業機械メーカーのインガーソル・ランド社製のコンプ | コンプレッサー室 | ||
レッサー4台が設置される。 | |||
○ 足尾鉄道の足尾駅〜足尾本山駅が開通し、間藤駅が開設される。 | 間藤駅・本山駅 | ||
(全線開通、総延長44.2km)。 | |||
◍ 田元鉄道橋(松木川第一橋梁)開通する。 | 松木川第一橋梁 | ||
1915 | 大正 4 | ○ 銅山の劇場兼大集会施設として、誠之館が開館する。 | 誠之館跡 |
○ 足尾銅山のシンボル、製錬所の4本煙突が建つ。 | |||
○ 新梨子油力発電所が開設される(日本最大の油力発電 出力1,000kw)。 | 新梨子油力発電所跡 | ||
1916 | 大正 5 | ○ 銅山の最好況時で、人口が38,428人となり、県内2番目の多さとなり、市制 | |
が期待された。 | |||
○ 工作課の鑿岩機工場が完成し、量産体制に入る。 | |||
○ 足尾煙害被害民、鉱業所に対し補償を要求する。 |