新木ノ俣用水(取入口)


 那須野ヶ原開拓史上かってない大惨事を引きおこした、新木ノ俣用水の取入口
 新木ノ俣用水は、高林地区の水田開発を目的として、明治26年(1893)に開かれました。江戸時代からある木ノ俣用水(旧木ノ俣用水)に対して、新木ノ俣用水と呼ばれています。
 高林地区は水利に乏しく、水田が非常に少ない所のため、村営事業として用水の開削を計画し、明治26年(1893)着工しました。
 取入口は集落から4㎞も山間に入った西俣川との合流点すぐ下で、絶壁にトンネルを掘る苦労はいかばかりであったか、渓谷の美しさとあわせて、先人の苦労に心うたれるものがあります。
 その後、東那須野村に三分の一の水利権を譲ることで、大正6年(1917)大改修工事が完成しました。
 昭和47年(1972)には那須野ヶ原総合開発によって近代的な取入口に改められ木の俣川の清流を流し続けています。
 昭和41年(1966) 7月8日、新木ノ俣用水トンネル内で、土砂の取り除き作業中、作業員59人(63人かも)のうち25人の犠牲者を出すという、那須野ヶ原開拓史上かってない大惨事を引きおこしました。事故のあったトンネル出口近くに、木ノ俣隧道殉難者供養塔が建立されています。その隣りには横川知事夫人によって観音像も建立されました。
事故現場周辺の略図
(黒磯の昔をたずねる会)

事故現場近くに建立された供養塔

トンネル断面図
(黒磯の昔をたずねる会)


 明治26年(1893)に掘られた堀とトンネルと思われます。


改修前の取入口
 このトンネル内の石組は、大正6年(1917)の改修の時に造られたものと思われます。
 事故のあったトンネルとも、大正6年の改修と思われますので、同形のトンネルと推察されます。


翌朝、昭和41年(1966) 7月9日(土曜日)の下野新聞記事
(宇都宮市立図書館)


所 在 地 管 理 者 建設時期


用途・目的
規 模 
那須塩原市百村(取入口・木の俣川)
那須野ヶ原土地改良区連合
明治26年(1893) 完成
大正 6年(1917) 大改修
昭和47年(1972)3月 現在の新木ノ俣頭首工完成
創設当時:飲用水及び開田
現在の頭首工:コンクリート・フローテングタイプ
堤高 1.00m・堤長 19.90m
取水量 0.55㎥/s
案 内 図
参考文献
栃木県土地改良史・栃木県土地改良事業団体連合会
那須野ヶ原の疎水を歩く・黒磯の昔をたずねる会
那須野が原歴史探訪・石ぐら会(ボランティアグループ)

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