古河橋の名称は、足尾銅山近代化の立役者、古河市兵衛(1832~1903)に由来します。 慶長15年(1610)の発見と伝えられる足尾銅山は、江戸中期には足尾千軒と呼ばれるほどに繁栄しました。その後、明治に入り衰退のきざしをみましたが、明治10年(1877)古河市兵衛の経営となり、銅山を復興させるために思いきって新しい技術を導入しました。その結果、明治20年代には、日本の全産銅の40%以上を算出する日本一の銅山となりました。 本山から赤倉に通じる重要な交通路の直利橋(木橋) は、明治20年(1887)の松木からの大火により焼失してしまったので、明治23年(1890)に現在の位置に架け替 え、「古河橋」と名づけられました。 架設以来100年を超える古河橋は、現在、木床版・木高欄に整備し町指定文化財として体裁をととのえ、歩道橋として再生しました。 追記 国の文化審議会は平成25年(2013)10月18日、古河橋を国の重要文化財に新規指定するよう、下村博文文部科学相に答申しました。指定されれば県内の建造物の重文指定は平成18年(2006)の那須疎水旧施設(本ホームページに掲載)以来7年ぶりとなり、今回の答申で本県の重文建造物は39件となりました。 本橋はドイツ・ハーコート社の工場で製作された部材を輸入し、現場でボルト接合のみを行い、短期間で組み立てたもので、足尾で近代最初期に整備された施設の中で、ほぼ完存しており、この種では国内最古の遺構となり、同審議会では「西洋の先端技術を導入し、短期間で近代化を成し遂げた技術的展開を示す遺構として重要」と評価されました。 日光市は足尾銅山の世界遺産登録を目指しており、古河橋が指定されたことは、足尾銅山の産業遺産が評価され、世界遺産の国内暫定リスト入りに一歩前進したと期待されます。(この項:一部下野新聞記事を引用しました) 関連事項 足尾銅山 |
建設当時の「古河橋」 明治23年(1890)建設 古河機械金属椛ォ尾事業所所蔵(栃木県史、史料編 近現代 九) |
古河橋より足尾銅山の製錬所跡を望む 「黄色い硫化水素の煙が霧の様にもやもやとしてゐる」 (芥川龍之介「日光小品(工場)」より) |
直利橋(木造) 明治17年(1884) 6月架設 直利橋の名は、明治14年(1881) 本口坑の大直利を祝して命名されました。 (目で見る足尾の百年) |
大正時代を代表する作家、芥川龍之介は、明治42年(1909) 10月東京府立第三中学校の修学旅行で、日光周辺や足尾銅山の工場を見学し、この時の日記をもとに書かれた「日光小品」は彼の初期の作品です。 |
ピン結合トラス |
弦材にはメーカーであるハーコート社の銘板が付いています |
所 在 地 日光市足尾町赤倉・足尾町本山 (渡良瀬川) 管 理 者 日光市 建設時期 明治23年(1890)12月28日完成 用途・目的 道路橋(市道 舟石線 、現在は歩道専用) 規 模 橋長・幅員:50.00m×4.60m 形式:下路曲弦ボーストリング・ワーレントラス橋 (ピン結合) |
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参考文献 | |
足尾郷土誌・足尾町郷土誌編集委員会 創業100年史(古河鉱業(株))・(財)日本経営史研究会 鉄の橋百選(近代日本のランドマーク)・成瀬輝男 |
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