越名馬門河岸跡

佐野地方の産業、文化を発展させた越名馬門河岸跡
                           
(改修された旧秋山川)
 明暦年間(1655〜1657)に須藤彦右衛門が彦根藩の許可を受け、1km余りにわたる秋山川の改修工事を行って、回漕問屋を開いたのが始まりです。18世紀に入ると各問屋の持ち船も増え、時には200隻以上の高瀬船が停泊し繁栄をきわめました。
 明治10年(1877)には東京から蒸気船通運丸が定期的に運行し始め、従来の高瀬船に代わりました。明治23年(1890)には葛生から安蘇馬車鉄道が 越名まで石灰や薪炭などを運びましたが、まもなく佐野鉄道(汽車)となり、明治30年(1897)代まで隆盛をきわめました。やがて佐野鉄道も東武鉄道に改められ、両毛線開通後は貨物も客も奪われて河岸はさびれ、大正10年(1921)頃には完全にその姿を消してしまいました。
 しかし、この河岸が、葛生の石灰業はもちろん、天明鋳物や佐野綿縮など、佐野地方の産業を振興させ、それに陽明学者中根東里や陶芸家尾形乾山(佐野乾山)を始め、多くの文人墨客が江戸文化を伝え、この地方の文化を発展させました。

明治30年代の越名馬門河岸 復元図
(昭和63年3月佐野市文化財保護審議委員会作成)

 明治中期の越名河岸問屋の光景と小廻船の鑑札(佐野市 須藤清市氏所蔵)

蒸気船 通運丸(野木町史、歴史編)

(上)越名河岸の景況
 
越名川岸の須藤又市家河岸場と葛生間に木道馬車が敷設されたのは明治20年、その後木道を鉄道に改め安蘇馬車鉄道となり越名駅が新設されました。 (写真で見る 東武鉄道80年)


河岸繁栄当時の石積と思われます。
                          (地元のお年寄りの話)

「越名の舟唄」永遠に

  船は艪で行く 越名の河岸を
       お江戸通いの 高瀬船

 越名河岸から江戸までを、高瀬船の船頭たちがこの唄を口ず
さみながら往来し、佐野の文化と経済を支えました。       
(佐野市田島町の大聖寺境内に「越名の舟唄」の記念碑建立)

 
  
案 内 図
所 在 地   
河岸の成立
用途・目的
佐野市馬門町(旧秋山川)
明暦年間(1655~1657)
舟運

参考文献
栃木県史・栃木県史編さん委員会
佐野市史・佐野市史編さん委員会
栃木の水路・「栃木の水路」編さん委員会


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