阿久津河岸跡

 かっては江戸と奥州を結ぶ文物交流の拠点であった、阿久津河岸跡
 さくら市(旧氏家町は)、江戸から地方に延びた五街道の一つである奥州街道の宿場町として繁栄しましたが、その南西部に慶長11年〜15年(1606〜1610)阿久津河岸が創設されました。
 会津藩、白河藩を主とする奥州南部諸藩の廻米、物資輸送のため、会津西街道・原街道・会津中街道が整備され、氏家宿に集中し、阿久津河岸へと運ばれました。氏家は街道と河川交通の要衝となり、江戸と奥州を結ぶ文物交流の隆盛の道をたどり、この大きな流通路を支えたのが鬼怒川舟運だったのです。
 鬼怒川を通った船は「小鵜飼船」という平底の箱船で、米なら25俵が積めたそうです。下流の久保田河岸に着くと、多くは高瀬船300〜400石積み(米なら750〜1000俵)に積み替えられ江戸に運ばれました。
 明治に入り、阿久津河岸は内国通運会社分社となって企業化され、藩政時代をしのいで華やかな水路交通の最盛期を迎えましたが、文明開化の波にのって鉄道が敷設され、汽車が運行されたことによって、河岸は急速にさびれていき、自然消滅しました。今は、氏家町の上阿久津地区を訪ねても鬼怒川水運の一大拠点として栄えた阿久津河岸の面影はありませんが、河岸の人々が、水神を厚く敬い、船中の安全や河岸の繁栄を願って、船魂を祀った船玉神社や、豪華な彫刻屋台が阿久津河岸の名残を止めています。

「端整絶妙」な上町屋台 繊細優美」な仲町屋台 「絢爛豪華」な本町屋台
 安政3年(1858)上阿久津上町、同4年仲町、同5年本町というように、若衆たちによって互いに競い合い豪華な彫刻屋台が造られました。                             (阿久津河岸・ミュージアム氏家)

河岸への道                      (阿久津河岸)
船玉神社本殿
 阿久津河岸の人々は、水神を厚く敬い、船中の安全や河岸の繁栄を願って船魂を祀りました。これが船玉明神で、本殿は豪華な極彩色の彫刻で飾られています。擬宝珠には天明4年(1784)の刻字が見られます。
              (阿久津河岸・ミュージアム氏家)


幕末期の阿久津河岸の姿 (ミュージアム氏家) 上阿久津付近を行く小鵜飼船(昭和7年)
   (阿久津河岸・ミュージアム氏家)


案 内 図


所 在 地   
河岸の成立

用途・目的

さくら市上阿久津(鬼怒川)
慶長11年(1606)、または12年(1607)・
15年(1610)とも多様に記されている。
舟運
参考文献
氏家町史・氏家町史作成委員会
鬼怒読本・ミュージアム氏家
阿久津河岸・ミュージアム氏家


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