三島ごばんの目

「三島ごばんの目」周辺の垂直航空写真
                         (日研測量 提供)
 那須野ヶ原は広大な原野が広がり、江戸時代には大田原藩や黒羽藩に属するとともに、各地に幕府の天領が数多くありました。原野は周りの村々の落葉・採草の入会地となっていました。
 明治になると公有地となり、政府は、殖産興業政策の中で、未墾地開拓に乗り出しました。その中で那須野ヶ原が注目され、ここを舞台に創設された農場・開墾地は30以上を数えます。
 肇耕社(ちょうこうしゃ)(三島農場)は三島通庸を中心として、明治13年(1880)に開設されました。農場内の道路網は、農場の東部を新陸羽街道(国道4号)が横断し、その一角から塩原新道(国道400号)が分かれ、この両街道の交差点を中心として、現在の三島・東三島・西三島地区はごばんの目に区画されました。約150haに及ぶ広大な区割りは、明治17年(1884)の地図に載っていることから、塩原新道(塩原街道)・新陸羽街道の開削にあわせてつくられたものと思われます。
 まるで奈良か京都のように(明治時代なら札幌か旭川のように)ごばんの目状としたのは、単なる開拓地としてではなく、郡役所・病院・銀行・農学校・製糸所それに駅などが計画されたことは、三島通庸の地方都市創造でありました。
 三島通庸は明治期の道路などの土木事業に手腕を発揮し、「土木県令」の異名を持ち、栃木県庁の移転をはじめ、都市づくりにも極めて熱心でありました。
 内閣総理大臣の諮問機関である「国会等移転審議会」が、平成11年(1999)に移転先候補地として、「栃木・福島」、「岐阜・愛知」、「三重・畿央」の三地域を答申し、平成14年(2002) 5月中を候補地の絞り込み期限としていましたが「先送り」され、今後、移転の是非から検討されるとか、「栃木・福島」地域が最有力候補であっただけに残念ですが、一日も早く結論を出すことを期待しています。もし選ばれなかった場合は、自然と都市が調和した、21世紀にふさわしい環境共生型の都市づくりを目指し、ユネスコの機関などを誘致して、世界平和に貢献できればと思います。 明治時代に始まった開拓の歴史、そして、今21世紀のモデル都市は那須から拓きます。


三島農場跡に移築した三島通庸の別邸
 西那須野町郷土資料館として使用していましたが平成 5年(1993) 10月29日火災により焼失しました。
                           (西那須野町郷土資料館)


開墾初期の肇耕社と塩原新道
 正面突き当たりが肇耕社(三島)の事務所、道路はその先左に迂回します。 [高橋由一の石版画(西那須野町郷土資料館所蔵)]

塩原新道(塩原街道)と陸羽街道の開通式場
 明治17年(1884) 三島通庸により開削され、現在の三島公会堂付近で開通式が行われました。
      [三島義温氏提供(明治の開拓と那須疎水)]



肇耕社
 明治13年(1880) 8月開設
 総面積:1,037町歩(約1,028ha)


三島農場のばれいしょの出荷風景 (昭和7年頃)
                    (西那須野町郷土資料館)

現在の塩原街道(一般国道400号)
                         三島3丁目・三島4丁目


案 内 図
所 在 地
管 理 者
建設時期
用途・目的
規    模     
那須塩原市(旧西那須野町)三島
那須塩原市
明治17年(1884)中につくられたと思われる。
区画整理
 塩原街道を縦軸として、縦:540間余(約981.7m)、横:800間余(約1,454.4m)、面積:150町歩(約149ha)の長方形の区域に2間2分(約4.0m)幅の道路を 縦横につくってごばんの目状とした。
 その1区画は、道路を入れて縦:50間(約90.9m)、横:60間(約109.1m)
でちょうど1町歩(約9,917u)である。

参考文献
明治の開拓と那須疎水 水は荒野をうるおす・西那須野町郷土資料館
西那須野町の交通通信史(西那須野町史双書E)・西那須野町史編さん委員会
大地を拓く(那須野が原の開拓と西那須野町)・西那須野町


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