黒部ダム


 わが国初の発電用重力式コンクリート・アーチダム(越流部の石張曲面が美しい)
 黒部ダムは下滝発電所の取水用堰堤として、大正元年(1912)建設され、当時の発電専用ダムとしてはわが国最大の規模を誇りました。下滝発電所は、鬼怒川水力電気㈱によって明治44年(1911)に着工し、大正3年(1914)に全設備が完成し、総出力 43,500kwは当時の発電所としては東洋一といわれました。昭和38年(1963)の大改造により鬼怒川発電所となるまで50年余、栃木県の誇る大容量、高落差発電所として運転されていました。
 堰堤は、鬼怒川の水を栗山村黒部で堰き止めるもので、当時の栗山は山を越え谷を渡り、やっと人馬が通れるほどの道しかなく、文字どおりの秘境でした。
 この工事に要する資材は、今市から大笹峠まで牛馬を使い、大笹峠から青柳平までは索道を利用しました。
 堰堤の構造は重力式コンクリート・アーチダムとして、表面に切石を使い、石材を一つ一つ人力で布積しました。
 当時の労働は、いわゆる「かんごく部屋」といわれ、人夫をしごき棒やしこみ杖をつかって牢獄以上の虐待をし、工事は難航をきわめ、災害犠牲者はわかっている人だけで59名を数え、」この外無縁仏の人が数百人にのぼるとされています。



逆川調整池
     アースダム

            堤  高 : 18.18m
            堤頂長 : 121.21m
            有効貯水容量 : 121,000㎥
            湛水面積 : 16,400㎡
            明治44年(1911)建設

 わが国で2番目に古い発電用アースダム(人も通わぬ山奥に彩りを添える紺碧の湖)

擬石コンクリートで修景した門柱
 写真に見る洪水吐きゲートの門柱を擬石コンクリートで修景したのが一寸残念です。
「哀悼の碑」
 黒部ダム及び黒部方面導水路の工事を請け負った早川組の犠牲者22名を供養するため、大正2年(1913)6月に栗山村立栗山中学校横に「哀悼の碑」が建てられ、犠牲者の名前が刻まれています。
 また、発電所本館及び発電所側導水路の工事を請け負った大丸組は37名の犠牲者を出し、明治45年(1912)3月に藤原町大原に「供養塔」が建てられています。
改修前の黒部ダム
(近代土木遺産の保存と活用)


 当時の重力式コンクリート・アーチダムは数少なく、特に曲率半径の小さい曲線溢流型の石張ダムは、その三次元曲面が美しく、22個のゲートが並ぶ洪水吐きは壮観でした。
 しかし、ダム本体の老朽化や法令上の基準から、構造を大きく変える必要に迫られ、日光国立公園の特別地域内にあるため、景観上の配慮と土石の流下が激しい鬼怒川の摩擦対策の両面から、ダム背面の越流部に当初と同じスタイルで張石工が施され、黒部ダムの最大の特徴である美しい三次元の石張曲面を再現し、歴史的景観を保全した東京電力㈱の配慮に深く感謝します。


案 内 図
所 在 地
管 理 者
建設時期

用途・目的
規   模



日光市(旧栗山村)黒部・日陰(鬼怒川)
東京電力㈱
大正元年(1912)12月完成
平成元年(1989) 3月大改修
水力発電取水ダム
重力式コンクリート・アーチダム
   堤  高 : 28.70m
   堤頂長 : 150.00m
   洪水吐ゲート : 鋼ローラーゲート 8門
   有効貯水容量 : 1,160,000㎥
参考文献
栃木支店 水力発電史・東京電力(株)栃木支店水力発電史編集委員会
とちぎの電力・東京電力(株)栃木支店

近代土木遺産の保存と活用・文化庁歴史的建造物調査研究会

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