逆木洞門

当時、鬼怒川最大の治水工事、逆木洞門(通称 ハナメド洞門の出口)
 鬼怒川の氾濫は、流域の住民に大きな被害を与え、江戸時代においては、宇都宮藩にとって大きな悩みの種でありました。
 元和6年(1620)城主本多正純は、農民の苦難を救うためと、新田開発を目的に、分流している西鬼怒川へつなぐ逆木用水掘削工事に着手し、あわせて下流の今里宿から宇都宮城下を流れる田川へ結ぶ「新筏川」をも開削させ、城の改築、町割などの工事用材の運搬に供しました。これが後の「御用川」です。
 これにより宝暦4年(1754)に上小倉村外47ヶ村による「逆木用水組合」が設立され、川除工事など出水による災害防止に努めてきましたが、はじめ用水路であった西鬼怒川は次第に大きくなりたびたび氾濫し、絶えず被害を受けていました。
 その原因は主として逆木分流口が悪いと思われ、明治になってからは県知事に災害防止対策の陳情を重ね、明治25年(1892)知事に「西鬼怒川分水口逆木治水工事請願書」が出されました。その後、明治29年(1896)の大洪水をきっかけに、明治30年(1897)に栃木県の一大事業として、鬼怒川本流から2孔の隧道により分水し、下流に新たな水路を設け従来の西鬼怒川に合流させ、安定した水流維持を図るための工事が行われました。これが「逆木洞門」です。
 その後、鬼怒川中部土地改良事業の一環として風見発電所が新設され、その放水口より鬼怒川本流をサイフォンで横断して取水することにしたため、昭和42年(1967)「逆木洞門」は閉鎖されました。
まばゆいばかりの紅葉に彩られた、逆木洞門上流部
 直上流にある取水施設は、宇都宮市の松田新田浄水高間木取水堰です。
型式 鋼製越流型自動転倒ゲート20.0m×1.0m 2門、 取水量 1.244?/s
  昭和52年(1977)10月31日完成
逆木サイフォン
形式     ニューマチックケーソン工法
延長     485.30m
通水断面 幅 3.300m×高さ 2.000m
通水量     Q=16.7?/s

(鬼怒川東部土地改良区 提供)
逆木隧道工事
 明治29年(1896)の大洪水を契機に洞門掘削を含む逆木工事が実施されました。工事は従来の西鬼怒川分流口を締め切り、新たに字稚児ヶ渕に2本の隧道を貫通させ、ここから西鬼怒川に流入させるもので、工事は明治30年(1897)に着手し、工事費11万5千余円、延べ人員23万8千余人が動員され、1年5ヶ月後に竣工しました。
 この工事によって、従来からの慣行となっていた東鬼怒川、西鬼怒川の水量配分比6分対4分を東鬼怒川7分、西鬼怒川3分としました。(しかし、その後の明治35年(1902)の水害等により後日談がありますが、この件については別途記することにします。)


逆木洞門入口のゲー

 逆木治水之碑(中央)と鬼怒川治水工事に
生涯を賭けた笹沼稲太郎の碑(左側)
上河内町大字宮山田、逆木水神神社境内

所 在 地    上河内町宮山田(西鬼怒川)
管 理 者    上河内町
建設時期    明治30年(1897)着手、
          明治31年(1898)5月中旬完成
用途・目的    西鬼怒川治水事業
規  模     隧道延長:170間(85間づつ2孔洞)
          (170間=309.10m・85間=154.55m)
案 内 図

参考文献
栃木県史・栃木県史編さん委員会
“水との闘い”西鬼怒川土地改良区沿革概史・西鬼怒川土地改良区
野州土方の物語・丸山光太郎

目次に戻る 次は日向砂防ダムへ